野菜に色気を感じるようになったのは、大人になってからである。きっかけは夫の実家で過ごした、ある春の一日だった。
その日は少し汗ばむほどの陽気で、私はまだ夫と結婚したて。いつも少し緊張しながら彼の両親と接していた。
車で義実家に着くと、外の水場に、山ほど筍が並んでいる。「まみさんが来るから、朝掘っておいたのよ。」と義母。根元に土がついた筍はスーパーで見るものよりずっと大きく、両手でやっと抱えられるほどずっしりとしている。
「私、掘り立ての筍って初めてです!」そう言うと義母は不思議そうな顔。「あら!今まで掘ったことないの?初めて!?」
それから義母は筍について教えてくれたあと、「じゃあ、まだあるだろうから一緒に掘りに行きましょうよ」と言った。
軽トラックに乗せてもらい山に着くと、元々肥料が入っていたのだろうか、厚みのある丈夫な空のビニール袋を持たされた。
義母はタケノコ掘り専用の鍬を片手に担いで、ずんずんと山の急な斜面を歩いていく。私はついていくのに必死だ。滑りそうで怖い。
「ほら、ここにあったわよ」嬉しそうに義母が指したところをよくよく観察すると、土からのぞく緑色のとんがりがわずかに見える。
義母はその付近を丁寧に鍬で泥をよけ、どおんどおんと土を勢いよく掘っていく。地中から筍が顔を出し、あっという間に引き抜かれていった。
義母は、最後に筍をぽんっと投げるようにして置いていく。その一連の動作に見惚れていると、すぐさま袋がいっぱいになり、名残惜しく筍掘りの時間は終了した。
あまりにたくさんだからと、義母は筍を茹でる時はいつも皮を先にむいてしまうそうだ。
言われた通りに、硬い殻のような茶色の皮に包丁で切れ目を入れ、ばりばりと剥いでいくと、赤紫色の姫皮が現れた。
「きれい…」思わず作業の手が止まる。姫皮は柔らかく、産毛が生え、まるで赤ちゃんのような清らかさ。丁寧に作られたパイのように重なっている。
さらにそっとむいていくと、乳白色の生の筍。すべすべして、艶かしい。
外のかまどで大きな鍋にお湯をたっぷり沸かし、クリーム色の筍を茹でていく。甘くこうばしい香りがあたりを包み、筍ってこんな香りだったんだと、初めて知った。
湯気がもうもうとして、天に上っていく。まるで何かの儀式のようだ。おしゃべりしながら皮の後片付けをして、筍が茹で上がる頃には、夫の実家に対しての緊張もすっかりほどけていった。
あれから筍を自分で下茹でする時も、義母の教えの通り、先に皮を剥くようにしている。
そして、これは私のオリジナル。米ぬかと昆布、お塩を入れる。昆布の旨みと、うっすらとついた塩味のおかげで、ただ茹でただけの筍のおいしいこと!オリーブオイルとお醤油をさっとまわしかけて、ちゅるんと姫皮を食べる時の贅沢さったら。
筍といえば、私の子供の頃は、煮物、天ぷら、炊き込みご飯といったものが主な献立だった。
しかし、私は筍を洋風に味付けするのが大好きなのである。
元々、筍が好きになったきっかけも、イタリア料理店で食べた「筍のパスタ」だった。オリーブオイルとニンニクの香りが、ごくごく薄くスライスされた筍にまとわりつくと、うっとりするほど甘い。口の中でぴちぴちと折れていく筍の食感がいじらしく、あっという間に平らげた。
それから私は、自分で筍を料理する時には、すっかり和食から遠ざかってしまったのだ。
ある時は、青カビの独特な香りのゴルゴンゾーラチーズを生クリームに溶かしたソースを合わせたり、パセリとニンニクを効かせたバターでソテーしたり。
筍のなめらかな肌は、油脂と合わさると、とたんにつやめく。そして、どんな個性的な味付けだって受け止めてくれるのが頼もしい。筍のひだが旨みを蓄えるので、食べた時に口いっぱいに美味しさが広がるのだ。
同じく旬である、生の桜えびと一緒にピザにしたものなんてもう絶品。
頬張りながら目を瞑り(美味しいものを食べた時の私の癖だ)「そうはいっても、筍も山で掘られて海のものとこんな風に食べられるなんて思わなかっただろうなあ」などと、ほんの少し申し訳なくなってしまう。
そうそう、どんどんエスカレートしていき、いちごとマリネをした時だってあった。これだって、なかなか意外と悪くなかったものだ!筍を料理している時も、食べている時も、あの山の土の匂いを思い出す。
一番外側の皮の指先を傷つけるほどの硬さ、秘められた姫皮の美しさを知らなかった日のことを。舌を使いながら記憶を反芻し、筍をごくりと飲み込む。
これからも、ゆっくりと味わわなくっちゃ。
私、大切なものが増えたなあ、と思った。